京都で広い広いお寺の本堂に座ると、まだ言葉というものと無縁な小さなころから、からだや空気で感じていた阿弥陀さんと出会える。

 「西の方に虹があって、そこに昇っていくの」
 「4人で手をつないでいくの。うれしい気持ち」
 「死んでも、いつも見てるからね」
 (会いに来てよ、どこにいるのか伝えに来てよと言うと)「なーん、こられん」

 死の数日前、こんな会話とともに、もう対して力の出ない指でペンを持ち、虹と4人の姿を母がかいたノートがある。他の書類とかなんかと一緒にある。シルクのスカーフを風呂敷がわりにしてくるんであるんだけど、まだあけられないや。

 オトナになると、単純に母親の死を悲しんでいるだけではいれず、葬式だのなんだの
 色々めんどくさかったなぁ。

 おとつい、余命宣告された友人のお見舞いに行き、気功のてあてをしたり話をしたりして時間をともにした。これまた親しくしている奥さんとも、まだ小さい子供たちのこととかを話す。「主人がいなくなり、役に立たない私たちだけが残りますけど、これからもおつきあいしてください」には返す言葉がなかった。

 先週の木曜は、前の学校で1年2年と担任した女の子のお葬式だった。

 人の死に際してばっかりじゃなく、ホントはいつもいつも阿弥陀様がご一緒で、私たちを見つけよう助けようとしてくださってるのにね。

 

 


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